bluelake725のブログ

最近、朗読に関心を持ちました。そしたら改めて、日本語を勉強する必要があると感じて
いるところです。(えびなコトバの会)

【7】第28回渡辺知明表現よみ独演会に行ってきた

朝になって、やっぱり行こう、と思った。最近出かけることが億劫に感じられるようになった。これはいけないことだ。今朝、渡辺先生の「にごりえ」を、ネットで聞いた。あとについて、リピートしたくなる。言葉がよく聞こえる。これも最近そうなんだ。そのせいかどうかわからないが、渡辺先生に、最近先生の「よみ」変わりましたね、などと言ってしまった。もしかしたら、わたしの中の何かが変わったのだろうか。なにか聴くことが楽しめるようになったような気もする。わからない。
 だから確かめたくなって、メールを打った。チケットがほしいと。
 場所は、大崎駅前の「ニューオータニイン東京」、2時30分より。
 今日の演目は、「梶井基次郎「闇の絵巻」、中島敦「文字禍」、太宰治『カチカチ山』、夏目漱石「吾輩は猫である」4本である。いずれもいい。見事なものであった。第1楽しかった。自分が少し聴けるようになったせいもあって、今までより  時間が短く感じた。いつも感じることだが、
進行が、さっぱりしていて、よろしい。これは多分に渡辺先生のお人柄によるものだろう。まったく嫌みのない、空々しいところもなく、安心して、座席に落ち着いていられる。ご本人に訊いたら、何とおっしゃるだろうか。いや、いい気分であった。夕方の我が家の飼い犬の世話があって、急いで帰ってきたのが少し惜しまれた。
 「闇の絵巻」、闇が私たちに与える感情と闇が作り出す世界が、聴いていて目の前に現れた。いい作品だと思った。いい読みであった。
 「文字禍」、”文字には霊があるか”と問う。「文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである」だからコトバの勉強をせっせとやらなくちゃ。
 博士は答えた、「歴史とは、昔あったことがらで、かつ粘土板に記されたものである。この二つは同じことではないか。書き洩らしは?と歴史家が聞く。書き洩らし?冗談ではない、書かれなかったことは、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局はじめから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ」じつに意味深長。現代を見よ。
「カチカチ山」うまいねえ。「吾輩は猫である」うまいねえ。時間が経つのを忘れて、聴いていた。
 上の二つは、帰ってから自分でも読んでみた。そうさせるきょうの「よみ」であった。

×

非ログインユーザーとして返信する