bluelake725のブログ

最近、朗読に関心を持ちました。そしたら改めて、日本語を勉強する必要があると感じて
いるところです。(えびなコトバの会)

【40】表現よみを語るということ、聞くということ

 あちこちで朗読の小さな発表会が行われている。
えびなコトバの会も3月16日に小さな発表会を行う。
初心者ばかりの会である。初心者が、発表会を原動力にしてまた1年頑張ろうという会である。多くの方に聞きに来ていただこうと宣伝用のチラシを送った。
初心者ばかりの「よみ」をききにこいとは、ずいぶんじゃないかというむきもあろう。
 「作品を読む」ということが大事だ。
作品には、文体がある。読む場合は、これが語り口となる。
作品によって語り口は変わる。夏目漱石の作品も、「坊ちゃん」と「こころ」ではもちろん語り口は違う。「吾輩は猫である」も、「三四郎」も、「それから」も「虞美人草」も、みな違う。違うところが面白い。
読む個人にとっても、同じ作品でも、それぞれ語り口が違う。
一文一文のよみが、人によってそれぞれ違う。文の中に強調される語もあれば、アクセントの生じる語もある。それが解釈によって違う。
その一文一文が、連なってひとまとまりの文章になる。
それが連なって作品になる。
そのよみは、文字を声に出すのではない。声によって作品が語らるのである。
災害で着の身着のまま逃げる。何も持たずでも、本一冊あれば、表現よみは無限に楽しめる。表現よみは、文字を声に変換するのではない。
朗読と称して、ただ文字を声に変換しているのを聞くことがる。
弱々しい声で、いや声にもならない声で文字を声に変換している。
それは「よみ」ではない。
作品を声で表現する、これが楽しいのだ。
聞く方は、きれいな声ねとか、いい声ねとかだけで楽しみを打ち切らないことだ。
こちらも同じ作品でも表現される違いが楽しめると、聞く楽しみは倍加する。
そんな発表会はお互いに楽しいものになるだろう。
えびなコトバの会は、そんなことを考えて一歩一歩歩んで3年目になる会である。
 


 

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